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2014.07.12

キリシタン黒田官兵衛

今年のNHK大河ドラマは『軍師 黒田官兵衛』ですが、
この本は『キリシタン黒田官兵衛』というタイトルです。

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最近、ある方と仏教とキリスト教について話す機会があって、キリシタン大名でありながら出家して「如水」という号を名乗った黒田官兵衛の話となり、あらためて黒田官兵衛という人物を知っておこうと思いました。

官兵衛がキリシタンであったことはそれほど広く知られていなかったり、今まで黒田官兵衛に関して多くの本が書かれてきましたが、そのほとんどが優れた軍略家、秀吉の参謀としての目線からですが、この本は、官兵衛の戦国大名としての功績にはほとんど触れず、激動の時代をキリスト教徒として生きた1人の貴人としてスポットを当てています。

黒田官兵衛ファンの方は多いと思いますが、その芸術的な軍略や戦術に加えて、他を思いやる「慈悲」を兼ね備えている面が彼の魅力なのではないかと思います。

彼の領地であった備前を戦乱に巻き込ませないために、苦労して敵対していた近隣の小大名たちを説き伏せたのも、戦費や戦闘要員を無駄に失いたくなかっただけでなく、殺生を避けたかったのではないかとも考えられます。

そして信長に謀叛を起こした荒木村重を単身で説得に行き、主君である小寺政職の裏切りに遭って、有岡城の土牢に一年間も投獄されてしまう。 酷い後遺症が残るほどの劣悪な環境から開放された後、自分を騙した元の主君の小寺政職が捕らえられましたが、これを成敗することなく放免します。。。この罪を咎めることなく赦しを与える行為は神の御心にかなっているように感じます。

そして普通ならば土牢に長きに渡って閉じ込められたうえに、片足が不具となり皮膚病で髪の毛が抜け落ちるような酷い目に遭えばトラウマとなり、その原因となった「敵陣に自ら赴いて...」という危険な行為は避けるだろうと思われますが、その後も毛利攻めをはじめ、多くの戦で和議を結ぶために官兵衛は危険を顧みず何度も敵の陣中へ向かいます。これはもはや戦術としてよりも、官兵衛自身が殺戮を好まぬ慈悲の心を持ち、さらには自らの命を神に委ねていたがゆえの行動なのかもしれません。

世が秀吉によって統一された後、1587年に「バテレン追放令」が出され、多くのキリシタン大名たちが棄教します。高山右近はキリスト教を棄てず地位も財産をも全て棄てて小西行長の元で匿われ信仰を貫きますが、官兵衛は剃髪して出家し「如水」と名乗り表向きは棄教したように見せかけます。

「如水」とは旧約聖書のヨシュアからきているのではないかという説があります。ヨシュアは「モーセの十戒」で有名なモーセの従者として軍事的な部分を担った人物で、モーセの後継者ともされており、この話から秀吉の参謀であり次に天下を獲るのは自分だという意味合いにもとることができます。
また「上善如水」という言葉がありますが、この意味は、「最も理想的な生き方は水のようなものだ、水は万物に益を与え、何者とも争わず、誰もが嫌がる低いところへ流れそこに留まる」
さらに「水は方円の器に随う」という言葉もあり、これは「水は四角な器にも丸い器にも、どんな器にもそれに応じて入る」という意味で、信長にも秀吉にもそして家康という器にも官兵衛は争わず入っている。
妥協するということではなく、水が低きに流れるように、無理なく理にかなう当然の方向に流れる知恵と、ひとたび怒れば山をも押し流す水の力強さはまさに官兵衛その人を表しているよう。
「如水」という号は他にもいろんな意味が考えられる深い言葉だと感じられます。

剃髪出家して禅道へ入ったかに見えた官兵衛ですが、バテレン追放令が出たその後も宣教師たちを庇護し続け、自らの死にあたっては遺骸を京の伏見から九州博多まで運ばせ、キリスト教式の葬儀をおこない、新しい聖堂建設やキリスト教関係者に多くの寄付をしています。
そうでありながら多くの寺社にも寄進をし、菩提寺は臨済宗のお寺である。。。 これは息子の黒田長政が江戸徳川幕府のキリシタン禁教令に対していらぬ疑いを持たれない為に、父親である官兵衛のキリスト教信仰を隠蔽しようとおこなった措置である。 と、この本では書かれています。

実際のところ真実がどうであったのかは400年も前のことなのでわかりませんが、黒田官兵衛という人物が軍人でありながら殺生を好まぬ非常に慈悲深い人であることは事実で、またこれはキリスト教、仏教の両方に通ずるものがあったのではないかと想像します。
僕自身がカトリック信者でありながら、最近知った「禅」の考え方にも関心と理解を感じているので、いったい官兵衛はどういう理念、スタンスだったのかと考えてしまいます。

「如水」という「水の如し」という晩年の名前、先にのべた様々な由来がありますが、水はどのような場所にあっても水平を保ち、高い低いを作らない。
これは物事の良し悪しを決めつけないことにも繋がり、もしかすると宗教においての考え方もキリスト教も仏教もどちらが良い悪いなど優劣をつけずに受容していたのかもしれません。

自分自身への戒めとして、頑固一徹が悪いとは思いませんが、水の如く何事にもとらわれず何にも衝突せずに生きていければいいですね。まぁ水とまではいかなくともせめてジェルくらいの柔軟さはほしいものです。

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コメント

水は、柔軟にその形を変えるだけではなく、
何色にでも染まる、という特性があるよね。

固く尖って生きるのは、周りが疲れるだけじゃなく、
自身が一番疲れるということを、最近になって学びました。

行く先々でその形を変え、そこの色にも染まる、
水の如き柔軟性が、いまの目標でしょうか。

20年前の書籍は、何の役にも立たない事が分かり、
今日、本棚を撤去し、ベッドを入れました。
来院される患者さまに勝る教科書は無いと分かったので。

徐々に、ここの形に合わせてトランスフォーム中です。
ちょいと疲れが出てきたので、ペースダウンし、
無理のない形で毎日の業にあたっております。

お互いもう若くはないので、無理のない範囲で、
できることをやって行きましょう。

>まぁさん

そうですね、水は何色にでも染まることができる。それに水は浄化もすれば汚染することだってある。自分自身がどのような水であるべきかが大切なんでしょうね。

書籍、処分しちゃったんですね、きっとたいへんな総額のものだと思いますが、初心に還るという意味ではそれに勝る価値のことをされたんだと思います。

お互いに丸くなる年代になってきましたね。
無理せず体と心の声を聴きながら柔らか~くいきましょう。

それがさぁ、、、捨てられてないのよw

超時代送れだし、今後絶対見ない本なのに、
捨てられないんだよねぇ。。。困

いま、職員食堂の棚、6個ほど、
自分の私物で埋まってます。

転職が処分のチャンスなんだけど、
結局今回も全部、持って来ちゃったからなぁ。

医学書の断捨離は、
断捨離の中でも、一番難しいと思うこの頃 OTL

>まぁさん

自分が思っている以上に周りからは年相応に見られてますよね。ま、僕の場合オヤジの風貌のわりに実際の中身はかなーりガキだったりするんだけど。(笑)

仲間がいるというのはなにかと心強いもんですよね。
独りだとなにもかも独断でできる気楽さはあるけど、やはり協力者、理解者、同志がいてると助けあったり、それに違う角度からの目線で観る(診る)ということができるのであらたな気づきもあるし。

医学書、ただの本じゃなくてまぁさんの歴史でもあるから、おいそれと廃棄処分は出来ないでしょう。それはそれでいいと思います。
思い出の写真みたいなものでしょうか。
きっと大事なのは、古いことにとらわれないということで、目につかない場所に置いておけば問題ないと思います。何かの機会に初心に還るという意味で開くことがあるかもしれませんしね。

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